Complete text -- "殺人の道具は障礙でない"

19 May

殺人の道具は障礙でない

 法科大学院受験準備答案作成ゼミを進学希望者の研究生を中心にやっていますが、なかなか古典的@=(--@v)もといオーソドックスな理論構成が多いです。違法性の錯誤は、みなさんそろって人格的責任論に基づく制限故意説でした。ということもあってか、抽象的事実の錯誤において、構成要件の実質的重なり合いを論証することにひじょうに苦しんでいました。オーソドックスな(?)団藤説は構成要件の実質的重なり合いなんていいませんから。

 話は変わって、間接正犯の正犯性です。

どうも道具理論と規範的障礙論を混同しているようです。道具理論は、構成要件に該当する行為としての実行行為として評価しうるかということを、被利用者を道具のように利用したという点を基礎として認めていこうとするものです。ここでは、行為態様として道具の利用ということを考えているのだともいえます。その意味で行為者の行為の特性に着目しているのです。

 これに対して、規範的障礙論は、被利用者の特性に着目して、それにより間接正犯か共犯かを峻別しようとするものです。あるいは、行為後の事態の経過において、規範的障礙が介在しなかった場合に、間接正犯とするものといえます。この点で、ただちに道具理論と接合できないものといえます。
 もっとも、規範的障礙でない者の利用する行為が間接正犯の実行行為だとする立場もあります。しかしながら、ここでの規範的障礙でない者の利用は行為の特性ないし行為態様の判断としてとらえられていて、実行行為性の判断を事前判断とする以上、規範的障礙でない者の利用をしたかどうかは、行為時判断によってなされないと理論的に一貫しないこととなります。これを、事後的な介在事情としての規範的障礙の不存在と混同して論じてしまうと、論旨があいまいで、理論的一貫性に欠ける答案となってしまうのです。

 このような理論的な一貫性の欠如は、とりわけ、過失行為を利用する場合に、被利用者が故意に行為してしまったという錯誤の事例で、顕著に示されることになります。

# ほかにも、某予備校の教材では、道具理論で個別行為説を主張していたりしますが、通常の論理、論証ではありえないものです。また、行為支配説をとれとかいっているそうですが、その論証もありえないもののようです。
04:40:10 | dolus | | TrackBacks
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