Complete text -- "「ね」へん"
10 February
「ね」へん
大学の近くの甲子園出場校へ通っている女子高校生たちが、国語のテストの勉強会を電車のなかでしていたのですが、その会話から。「このアラビア文字みたいなの、なに?」
「それは、しんにょう。この部首使うのは他に達とかぁ」
「たつ?」「友達の達」「あぁ、たつね」
「これは?」「それは、ねへん。片仮名のネだから」
「……」
鞄から電子辞書を出して調べてみて
「あ、しめすへん。ねへんともいう。わかりやすいから、ねへんでいいよ」
「ねへんに点がついたのは?」「ころもへん」
で、話題は電子辞書に移って、イタリア語も載っているとか、そういう話へ。
「イタリア語は、男と女で話す言葉が違うんだって。女性は、ら、ばっかりいうんだって」
ゆとり教育のせいなのか、何でも安直に教えるようになっているようですね。辞書類もそういうところまできたようです。
#言葉の意味だけをみるなら、電子辞書でもよいのですが、勉強あるいは自己の能力向上には、まだ書籍の辞書のほうが有効なようです。電子辞書のプログラム・インターフェースを作っている技術者は、辞書を使い込んで勉強したことがないのでしょう。
しめすへんも、形だけでみて「ネ」へんでよいとか。漢字はたんに読み書きができればよいという国語教育なんて、やっても無駄だし、つまらないでしょう。
扁や旁などを勉強するのは、それらを覚えること意味があるのではなく、表意文字としての漢字のなりたちまでさかのぼることにも意味があるように思うのです。
「示」扁は、もともと神を意味するものとして使われているよとか、そういったことから漢字に興味を持たせることもできるはずなんですが、そういう力量のある小中学校の教師はいないのでしょうか。
たしかに片仮名の「ネ」は、禰の扁から変形したものです。でも、禰は、天意・神の意にそうもの、ちかいものということであるということのはずで、そういったことへも話をふくらますこともできないものでしょうか。
さらにいえば、「ねこもしゃくしも」というけれども、「ねこ」は猫ではなく、「禰子」のことで、しゃくしも杓子ではなく、「釈子」のことをいっていて、「神道を信仰する者も、仏教を信仰する者も、みんな」ということなんだ、とか。いろいろ話はできるものなのにとは思うのですが、この程度のことを小中学校の教員に求めるのはまちがいなんでしょうか。
男性名詞と女性名詞の話にいく前に、まずは日本語をきちんとしないといけないのとちゃうんか、というのが、最後に思ったことです。
#外国文献の読解も、国語力が重要なんですが、意外と軽視されています。
話によると、私の出身大学院の博士課程入試が、ここ数年、極めて易しくなったそうですが、それでも何回も通らない人がいるらしく、そういう人は、語学力がないというより、日本語の読み書きする力がないということなのかもしれません。
09:23:02 |
dolus |
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