Complete text -- "愛がないことの証明"

12 June

愛がないことの証明

 官能小説の次は、淫行条例。
 東京都青少年の健全な育成に関する条例が改正されて、18条の6が追加され、「何人も、青少年とみだらな性交又は性交類似行為を行つてはならない。」という規定が追加されました。
 しかし、都議会あるいは都庁は、最大判昭和60年10月23日刑集39巻6号413頁およびそこで議論されたことをきちんとふまえていないようです。まず、「みだらな性交または性交類似行為」というのは淫行の置き換えにすぎないようです(同判決の牧裁判官の意見参照)。だったら、この事件で、淫行の概念がわかりにくいと問題提起されたのだから、ちょっと考えれば、定義規定を盛り込むべきであったと考えるのですが、それをさぼっています。
 また、最高裁は、淫行を「青少年を誘惑し、威迫し、欺罔し又は困惑させる等その心身の未成熟に乗じた不当な手段により行う性交又は性交類似行為のほか、青少年を単に自己の性的欲望を満足させるための対象として扱つているとしか認められないような性交又は性交類似制為」と解釈し、「『淫行』を広く青少年に対する性行為一般を指すものと解するときは、「淫らな」性行為を指す『淫行』の用語自体の意義に添わないばかりでなく、例えば婚約中の青少年又はこれに準ずる真摯な交際関係にある青少年との間で行われる性行為、社会通念上およそ処罰の対象として考え難いものをも含むこととなつて、その解釈は広きに失することが明らかであり、また、前記『淫行』を目して単に反倫理的あるいは不純な性行為と解するのでは、犯罪の構成要件として不明確であるとの批判を免れない」としています。
 それにもかかわらず、都の関係者は、真剣に恋愛している場合であっても、「みだらな性交」に該当するとし、真摯なつきあいや婚約などの例については、該当しないとするようです。で、真摯なつきあいと真剣に恋愛しているのとどう区別するのでしょう。結局、透けてみえてくるのは、「みだらな性交」という裁量の余地のある文言にしておいて、現場での恣意的な自由な裁量の余地のある取締を可能にしたいとの思惑でしかないのです。
 そして、その思惑は、「2人の関係をきちんと証明できないとダメだろう」という誤ったコメントにあらわれています。「みだら」であること=真摯なつきあいのないことは、犯罪構成事実である以上、検察官が立証すべきであり、被疑者が証明すべきことではないのです。もっとも、真摯なつきあいのないことを100%の完全性をもって証明する必要はなく、真摯なつきあいのないことが合理的な疑いをいれない程度に明らかであればよいことはいうまでもありません。でも、ある程度交際の事実があるとき、真摯でないことをその程度に証明するのは結構たいへんかもしれません。
  だからといって、勝手にその証明責任を転換するなんていうことは、当局の人間が軽々しく言うべきではないでしょう。そんなことをいっていると、その程度の人しかいないのかという悪評もでてきて、だから、任せられないと、やめられる予定の副知事にいわれるかもしれません。

# 質問があったので追記
最高裁は、たんに反倫理的あるいは不純な性行為と解するのは不明確といっていますので、愛があるかないかは問題にしていないのです。それを、みだらな性交または性交類似行為という広汎な概念を使用しておきながら、愛がないといけないとか、愛があることを証明しろという東京都の担当者のお粗末なところに問題があるということです。だったら、それこそ明確性の原則に反するとして違憲無効とされても文句は言えないのではないか、ということです。
00:38:15 | dolus | | TrackBacks
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