Complete text -- "ぁゃιぃ本"

09 June

ぁゃιぃ本

 相当因果関係説において、狭義の相当性判断を(1)行為に存する結果発生の確率の大小、(2)介在事情の異常性、(3)介在事情の結果への寄与の大小により判断するという立場があります(前田・総論183頁)。確率の大小や寄与の大小が結論に対してどのように関係するのか、その判断の具体的構造が不分明であるという問題や、事実的な寄与ではなく、端的に規範的な帰属判断に移行すべきではないかという批判があるのは、ともかくとして、一応このような判断の枠組みをとることは可能です。
 しかしながら、このような判断枠組みが折衷的相当因果関係説と両立するのかといえば、答えは否定的になります。前田説はあくまで客観的相当因果関係説に立脚しながら、狭義の相当性判断を具体的な経過を参照しつつ判断しようとするものです。これに対して、わが国で主張されている折衷的相当因果関係説は、そもそも狭義の相当性を広義の相当性判断に集約させ、行為の危険性と結果との対応関係の相当性を判断しようとするものです。
 そのため、このような折衷説の構造からすると、折衷説の枠組みおよび理論構成、論証をとりつつ、狭義の相当性判断を独自に取り出し、行為後の具体的な経過を判断するということは、矛盾することなるため、前田説の判断の枠組みを採用することはできないのです。そのようなことを無批判に、なんらの論証もなく、結合させてしまっている本があるのですが、いかがなものでしょうか。2ホップくらい論証しないといけない気がします。

 ついでに、有形偽造は、一般には、名義人と作成人の人格の不一致とされたりします。偽造罪の各本条をみればわかりますが、その行為について「偽造した」者を処罰するとの規定になっています。ということは、人格の同一性の存否が偽造したかどうかの判断となるはずです。
 しかぁ〜し、なにを血迷ったのか、人格の同一性について一般人が疑いをもちうる場合、一般人の見地から人格の同一性に危険が認められる場合、人格の同一性が一般人の見地から害される危険がある場合が、偽造であるとすると書いている本があるようです。
#未確認ですが、たぶん上の因果関係の話を書いたのと同じシリーズでしょう。

 でも、どう考えてもこれは「偽造」を「偽造の危険」に読み替えていることになり、罪刑法定主義に反するものです。偽造=人格の同一性の欠如であれば、それに疑いがある場合、というのは、偽造のおそれがあるということです。もっとわかりやすくいえば、偽造したから処罰するのではなく、偽造をしたかもしれないと一般の人に疑われれば偽造になるということです。嫌疑刑を認めるものといいかえてもよいです。
 その著者の論理をなぞれば、偽造行為自体は公共の信用の危険を擬制しているのですから、危険の擬制の危険でも処罰してよいと述べているともいえます。

 この場合、名義人の特定を、当該文書の記載から判断して一般人が誰を名義人と考えるのかという基準でおこなうというのとは、根本的な相違があります。こちらの考え方は、名義人をきちんと明確にしそれが作成人と一致しないから、「偽造した」と判断しているからです。「よ〜くわからないけどぉ、どうも偽造っぽいから、偽造罪で処罰して」というのとは、わけがちがうのです。

♪あらまあ どして けどでも
 わかるけど 男の子でしょ だからねえ

よくわかっていないことは書かないで。授業で修正するのに手間取るから。
04:16:41 | dolus | | TrackBacks
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