Complete text -- "ニュースなつっこみ"

17 December

ニュースなつっこみ

 明石の歩道橋事件の判決があり、現場責任者に有罪判決が下されたようだ。過失の存否という難しい問題は、判決文が出てから、検討すればよいとして、気になった記事があったので、またまたつっこみ。
過失事件に詳しい甲南大法学部の平山幹子助教授(刑法)は「過失責任認定には、死傷事故が発生する危険の認識が抽象的でなく、具体的でなければならない。裁判所が予見の対象や基準をどこに求めるかが、有罪、無罪の分岐点になる」とする。


 これもおそらく記者のまとめ方に問題があるのだろうと思う。ここでは、一般的に過失責任の認定について語っているので、通常の交通事故も含まれるはずである。しかし、死傷事故の具体的な危険の認識がある交通事故というのは、この前新設された危険運転致死傷罪やそれにちかい態様をのぞくと、ほとんどないような気がする。結果の具体的な予見可能性(認識可能性)は問題としえても、結果発生の具体的な危険の認識が過失責任の実質ということはちょっと想定しにくい。極論すれば、故意と過失はどのように区別するのか、従来故意とされたものがかなり過失へ移行するのではないかという疑問が残る。予見と予見可能性は違うであろう。論者自身が、従来の実務とかなり違う過失概念を主張しているなら、話は別だが。
 もしかすると、結果の具体的な予見可能性を認定する際に、死傷事故の危険性の具体的な認識を基礎とするのだという主張なのかもしれない。しかし、死傷事故の危険性を具体的に認識していたなら、人の死の結果を予見したといえるのではないだろうか、未必の故意があることにはならないのだろうか。そのときに人が死ぬおそれを具体的に認識しているのに故意ではなく、過失を認める理屈は何であろうか。結果発生の危険を具体的に認識していない忘却犯は過失責任を問えないのであろうか。とすると、この意味での主張でもないといえる。
 第一文と第二文との関係もよくわからない。死傷事故が発生する危険の認識を具体的に要求するといっているのだから、予見の対象と基準はア・プリオリに決まっているものと読めるのに、裁判所がどこに求めるかとあるなら、決まっていないのかとつっこみたくなる。
 記者が手を加えるようなときは、きちっと注意しないとへんな誤解を生むという例の一つかもしれない。
15:40:21 | dolus | | TrackBacks
Comments
コメントがありません
Add Comments
:

:

トラックバック