Complete text -- "みんなKO!?"

28 October

みんなKO!?

 具体的事実の錯誤の報告をきいていて気づいた。なんかみんなKOである。

 方法の錯誤を中心として具体的事実の錯誤を処理する場合に、既遂結果に対する故意への主観的帰属を問題にしようという立場を紹介していた。多少異同はあるが、行為者の認識した実行行為の危険性が現実化した結果に対してのみ故意の既遂犯を認めうるとするという見解である。
 ここでは、従来の別の意味での結果無価値と行為無価値の理解が問われていると思われる。通説・判例とされている法定的符合説は、同一の構成要件的評価を受ける場合には、すべて故意を認めるとする。しかし、この場合、その主観的側面においては、自己の実行行為より生じた結果については全部責任をとらなければならないということまでも主張することになっている。およそ人を殺そうと認識した以上、故意としてたりるとするが、端的に言えば、殺人の実行行為性の認識さえあれば、そこから生じた結果についてはすべて責任を負うべきだということである。実行行為という行為無価値に対する責任が、そのもたらす結果全てへ責任を自動的に基礎づけるというのであるから、そのかぎりで結果責任あるいは偶然責任を容認している。責任論における行為無価値一元論といってもよい。
 さらに、観念的競合により一罪として処理するので、責任主義には反しないとするが、これは実行行為性に対する責任を問うことについて責任主義に反しないだけで、行為者のコントロールしえなかった結果についても責任を問うということになれば、結果責任の点で責任主義には反していることになろう。そもそも観点的競合の一罪性を責任の1個性に直結させるということは、そこには反規範的態度が一個しかないということを意味し、およそ法に反する意識が責任の実体であるということを容認せざるをえなくなる。犯罪成立要件における違法性の意識で、違法性の意識の構成要件関連性はないということである。個別の法益侵害に対する責任は不要ということになる。となれば、法益侵害の個別的把握も結果の個数以外に意味はなく、犯罪成立要件でも重視しなくともよくなるのではなかろうか。
 
 個別の法益侵害に対する具体的な責任、結果帰属を考えるという立場は、対照的に、責任判断で法益侵害の個別性を重視するものといえ、その意味で責任論における結果無価値論といえる。で、このような見解として、報告者が紹介した人たちは、なぜか現在慶應に集まっている。類は友を呼ぶ、といったら怒られるが。

# 本格的な治療がまだ始まっていないので、体をごまかしながら、なんとかやりすごしている。どうも体調がすぐれない。これで、来月の過酷な会合日程をこなせるのだろうか。
05:04:07 | dolus | | TrackBacks
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