Archive for 15 June 2005

15 June

Light My Fire

 基礎づけるからこそ否定できる(正確な表現は失念)とは、Arthur Kaufmannの言葉ですが、刑法の議論のほとんどはこれでやっちゃえるところがあります。共同正犯の一部実行全部責任を因果的共犯論に立脚して、因果性の存在により基礎づけるという立場(共同正犯を共犯として位置づける)なら、共同正犯の成否は因果性の存否に依拠させるということで一貫します。共謀共同正犯も、承継的共同正犯も、共謀関係からの離脱も、共同実行からの離脱も、すべて因果性の視点で論じればよいのです。
 でも、この立場では、心理的因果性がやっかいなことになりますので、強化・促進のという因果性をもってきたりします。これで、共同正犯を基礎づける場合の判断はうまくいきますが、否定する場合、とくに離脱の場合はかなり面倒になります。いったん実行者の心に火をつけたとき、その心の火を消し去るのは難しいように思われます。そこで、判例等に現れた事案をもとに因果性が解消される場合を類型化することになります。それでも、因果的共犯論で共同正犯を基礎づけると、共同正犯は因果性の点では教唆・幇助と同質のもので、おそらく結果に対する因果性の度合いで正犯性を区別せざるをえなくなります。そうすると、完全に解消できなかった場合、共同正犯となるのか、教唆・幇助になるのかという問題は残りそうな気もします。

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12:12:06 | dolus | 84 comments | TrackBacks